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船橋市議会議員 日色健人 意志あるところ必ず道あり

待っていたって、始まらない。さあ、新しい船橋に! より良い船橋のため、日々奮闘する船橋市議会議員 日色健人の活動をつづるブログです。

痛みのわかる政治家とは。

日色です。

ここ2日間、NPO法人フローレンス代表の駒崎さんとの議論を通じて、いろいろと考えさせられました。

過去記事 7月6日付「浦安・松崎市長の病児保育に関する発言(とされるもの)をめぐって」

http://taketo2784.blog76.fc2.com/blog-entry-455.html

過去記事 7月7日付「NPO法人フローレンス:駒崎さんへの返信」

http://taketo2784.blog76.fc2.com/blog-entry-457.html

上記7日付記事に対する駒崎さんのブログ記事「病児保育は行政がやるべきでない」という議員の方へ」

http://komazaki.seesaa.net/article/155715173.html#more


意見はあらかた出尽くしたので、これ以上の議論は控えますが(ので、もし駒崎さんがこれを読まれても、返信は求めません)、この議論の模様をご覧になった方からも多くのご意見をいただき、その意味するところを考えています。

いただいたご意見の中で最も胸が痛むのは、「どうして私たち苦しんでいる親の気持ちに共感してくれないのか」という趣旨のものです。
家庭環境や勤務形態等それぞれに違う中ではありますが、同じ子育て中の世代として、子供が良く熱を出すことも、看病が肉体的精神的に疲れることも、そして子供連れに寛容な社会でないことも、私は肌で感じて知っています。
我が家は共働きではないですが(これは決して恵まれているからではなく、家族で話し合って選択した結果です)、共働きで働く親も知人友人に多くいる中で、彼ら彼女らが直面している困難を聞くことは珍しいことでなく、努めてその思いを共有しようとしています。

ただここで私が政治家のはしくれとして、同時に自らに課しているのは、他のあらゆる市民の「痛み」にも常に同じように耳を傾け、その思いを共有しなければならない、ということです。

病児保育サービスの不足に悩む親がいると同時に、幼児教育の不足を憂いさらなる充実を求める親もいる。
一人暮らしの孤独にさいなまれる高齢者がいると同時に、高齢者福祉に比べて子育て支援が薄いと憤る人がいる。
劣悪な道路環境に悩まされる住民がいると同時に、道路拡幅に伴って立退きを迫られる住民がいる。

政治の仕事とは、あらゆる市民の声に(声あるものも、声なきものにも)耳を傾け、その思いを共有し、そのいずれをも胸にしまって、一つの結論を出していく仕事だと思います。
その結果として、限られた予算の中で優先順位をつけたり、その手法を選んだりという形で現れますが、それがすべての市民の満足を得るものには未来永劫ならないでしょう。

今回私はいくつかの理由で、行政による病児保育サービスの提供に否定的な見解を示しました。それが現在ご苦労されている働く親の方にとっては、冷たく、市民の声の届かない議員、と映ったかもしれません。選挙のことを考えれば、どんなご要望にでも「はい、実現に向けて頑張ります!」と言っていればよかったかもしれません。

しかし、冷たい言い方かもしれませんが、働く親だけが親ではなく、子育て世代だけが市民でもない、という現実を、あらゆる市民から集めた税金の配分を決定する議員として、私は決して忘れてはいけないのだと思います。
そのうえで、駒崎さんの言に一言添えて「『あらゆる』市民にとって何が最も幸福だろうか」を決定し、その結果として寄せられるあらゆる市民の意見を(たいていは批判ですが・・・)受け止めるのが、この仕事の宿命なんだとあらためて思います。


また、松崎市長、そして私への意見として、「個人の価値観で政策を決定するな」というものも複数ありました。「私心なき政治」というのはありえる(というかそうあるべき)だと思いますが、先に述べたようにあらゆる市民の声を聞き、「あらゆる」市民にとって何が最も幸福だろうかを決定していく際には、最終的には個人の価値観に基づく判断(しかもその決断自体は瞬間的に)になります。これはその価値観を優先させているということではなく、代議制を取っている以上、代議員の価値観を除いた政策決定はありえないという事実です。

この弊害を取り除くのが選挙です。政策も一つの投票基準ですが、その候補者がどのような人生を歩み、どのような価値観に従って行動していくか、それも見極めていただく必要があります。私はネットの利用や駅頭活動などできる限り自分の意見を開陳することで、有権者の判断を得ようと心掛けていますが、しあさってに迫った参議院選挙においても、候補者の価値観まで見極めた投票行動がなされることを願っています。

そしてもし、信頼に足る価値観をもち合わせた候補者がいない場合には、ぜひ自らがプレイヤーとして手を上げることを考えていただきたいと思います。今回の議論の中で、市民と政治家を全く別の世界のいきものとして意見を寄せてこられる方が多くおられました。サラリーマンから今の仕事になった私にとって、政治家と市民とを区別する考え方そのものが、この国の政治の貧困を招いていると感じています。「政治家が~~してくれない」というのは「自分が~~しない」、というのとほぼ同義であると思います。


さて、この記事のタイトルを「痛みのわかる政治家とは」としました。政治家にもいろいろな種類があると思います。

人のことはさておき、自分は、痛みのわかる政治家か。市民の痛みを和らげるべく、とりうる行動をとっているか。提示した結論はベストのものか。結論に重ねて寄せられる声に謙虚であるか。

見も知らぬ働く親から寄せられた「なぜ私たちの苦しみがわからないのか」という声と、
その声に痛む我が胸を押さえながら、これからも活動を続けていきたいと思います。
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